「頑張らなくていい運動」から、自分と向き合う時間を届ける
楽天からアパレル、エステの現場までを渡り歩いた一人の女性が、たどり着いたのはピラティスだった。ESS株式会社代表取締役・坪井里奈氏が立ち上げたのは、ただ身体を鍛えるための場所ではない。「頑張らずに、今の自分のままでいい」——そんな時間を世の中に広げたいという思いから始まったスタジオづくりの歩みと、その根っこにある価値観を聞いた。
楽天からエステまで、遠回りの経歴
坪井氏のキャリアは、まっすぐな一本道ではない。大学卒業後に入社したのは楽天株式会社。楽天市場に出店する店舗の開発営業を担当したが、在籍は一年に満たなかった。
その後はアパレルメーカーでEC・通販事業を担い、次いでSNS運用代行を手がける広告代理店へ。ここで一人目の産休・育休を取得し、復職を果たすものの、数か月で退職を決める。
転機となったのは、フリーランスとしてエステのセラピストを始めたことだった。個人事業主として約一年、施術を続けるうちに客足が伸び、「組織化しよう」と法人を設立。恵比寿にサロンを構え、約五年にわたってエステの現場に立ち続けた。
「頑張らない運動」との出会い
エステサロンでセラピストとして働くなかで、坪井氏はある違和感を抱いていた。大きな不調があるわけではない。それでも「自分の時間が作れない」「運動も億劫」と感じる日々が続いていた。
そんなとき、お客様から勧められたのがピラティスだった。2020年の冬、初めてマシンピラティスを体験する。もともと運動が苦手で、ジムも続かなかったという坪井氏にとって、それは驚きの体験だった。
「今までの自分にとって運動は『頑張るもの』というイメージが強かった。でもピラティスは逆に、頑張らずに今の自分のままでいい。心も身体も緩んでいく、初めてのフィットネスだと感じたんです」
この感覚は、自分だけのものではないはずだ——。子育て中の母親だけでなく、世の中の多くの人に「自分と向き合う時間」が必要なのではないか。当時のピラティスは一セッション一万三千円ほどと高価で、グループレッスンが中心。子どもを連れて通える場所もなかった。ないなら自分で始めよう。そうして自宅近くの三軒茶屋に一号店を開いた。
ピラティスがもたらすもの
ピラティスはもともとリハビリを目的に生まれたものだ。短期間で痩せることを狙うのではなく、コアやインナーマッスルを鍛え、身体の機能そのものを高めていく。内側が整うことで、心の安定にもつながるという。
「身体の正しい使い方を学べるので、肩こりなどの不調が出にくい身体を作れます。骨盤を軸に正しく身体を使えるようになると、変なところに脂肪が乗りにくくなる。基礎代謝も上がるので、結果的に太りにくい身体づくりにもつながります」
近年はプロ野球やサッカーの選手が、パフォーマンス向上のために取り入れる例も増えている。坪井氏のスタジオでも、体験した女性が「良かったから」とパートナーの男性を紹介するケースが広がっているという。
選ばれる理由は「人」に宿る
創業当初、スタジオが選ばれた理由は完全個室という空間性にあった。だがそれは、まだ競合がいなかったからでもある。同じようなスタジオが次々と生まれるなかで、坪井氏が今もっとも自信を持つのは「人」だ。
「一番はスタッフの質、人間力です。そこの評価や育成に、一番お金も時間もかけています」
設備や立地は模倣できても、そこで働く人の質はすぐには真似できない。坪井氏はそこに、事業の核を置いている。
裏切りを越えて、現場に立ち続ける
代表として最も苦しかったのは、直営のみで運営していた時期だという。当時スタッフは全員が業務委託。心が通じ合っていると思っていたインストラクターが、お客様を引き連れて独立したり、他スタジオへ移ったりすることが続いた。
「人を信じてやっているビジネスだからこそ、余計に堪えました」
なぜ人が離れるのか。突き詰めた結果、社内にキャリアアップの仕組みがなかったことに気づく。そこで坪井氏は、インストラクターが自らオーナーとして独立できる支援制度を整えた。苦い経験は、組織の仕組みへと昇華された。
一方で、フランチャイズ展開を進めると、今度は理念の共感が薄れるという新たな課題に直面する。だからこそ、直営もフランチャイズも変わらない理念の浸透に力を注いでいる。
その根底にあるのが「現場主義」だ。規模が大きくなるほど現場から遠のき、自分の熱量と現場の熱量に差が生まれてしまう。だから坪井氏は、今も自分の足でスタジオに通う。お客様がどんな環境でレッスンを受け、インストラクターが何に悩んでいるのか。自分の目と耳で確かめることを、開業以来ずっと大切にしている。
「誰かのために」働ける仲間と、その先へ
坪井氏が一緒に働きたいと願うのは、「誰かのために何かをしたい」と思える人だ。
「自分が成り上がるためではなく、この人のためにこうしてあげたい、という気持ちを持っている。今、私たちと関わってくださる方や提携先の企業さんは、みんなそういう利他の心を持った人たちなんです」
今後の展望を尋ねると、まず見据えるのは三年後。「ピラティスといえばこのスタジオ」と名前で指名してもらえるブランドに育てることだ。そして五年後、坪井氏の視線はピラティスの枠を超えている。
「私たちはピラティスでなければいけないわけではないんです。自分の心と身体に向き合う時間を世の中に届けて、習慣にしてほしい。それが叶うなら、ほかのウェルネス分野にも展開していきたい」
手段はピラティスでも、目的はその先にある。坪井氏の挑戦は、まだ入り口に立ったばかりだ。
会社概要
- 会社名:ESS株式会社
- 代表者:坪井里奈
- 事業内容:ピラティススタジオの運営、フランチャイズ展開
編集後記
華やかな経歴に見えて、その実は「自分と向き合う時間が作れなかった」という等身大の悩みが原点にある。運動嫌いだった一人の女性が見つけた「頑張らなくていい」という感覚を、社会の習慣にまで広げようとする姿は静かで力強い。人の離反という痛みを仕組みへと変え、現場に立ち続ける姿勢に、この事業の芯の強さを感じた。
